新日本宗教団体連合会(新宗連、石倉寿一理事長)は5月21日から23日にかけて、「すべてのいのちを尊ぶ世界」実現推進事業の一環として「平和への巡礼U」(沖縄)を実施した。今回の巡礼は、2月に行われた「平和への巡礼T」(タイ王国)、4月の「平和への巡礼U」(前段プログラム・鹿児島)に続くもので、太平洋戦争末期、国内唯一の地上戦の舞台となった沖縄において、戦争の記憶に向き合い、慰霊と平和への祈りを捧げる3日間となった。
太平洋戦争末期、沖縄本島を舞台に繰り広げられた沖縄戦。日本本土防衛の「最後の砦」とされた沖縄では、日本軍と米軍が熾烈な戦闘を繰り広げた。住民を巻き込んだ戦闘により、20万人以上が命を落とした。米軍は3月26日に慶良間諸島に進攻し、4月1日には読谷村(よみたんそん)周辺に上陸を開始。日本軍は第32軍を中心に持久戦を試みたが、兵力と装備の格差により南部への撤退を余儀なくされた。
加えて、旧制中学や高等女学校の生徒らが「鉄血勤皇隊」や「ひめゆり学徒隊」などとして戦場に動員され、多くの若者が命を失い、集団自決に追い込まれる例もあった。
戦略的持久戦の名の下、「捨て石」とされた沖縄では、戦禍が住民に集中した。戦後、27年にわたる米軍統治を経て本土に復帰したが、今なお多数の米軍基地が存在し、不発弾や遺骨が地中に残されている。
巡礼初日の21日午後、一行は那覇市内の対馬丸記念館を訪問。1944(昭和19)年8月22日、那覇港を出た疎開船「対馬丸」が米国の潜水艦に撃沈され、児童を中心に1400人以上が犠牲となった。同記念館では生存者の証言、遺品、当時の資料に触れ、戦争が奪った命の重みと平和の尊さを深く学んだ。
続いて、隣接する小桜の塔前に参列。代表者が花を手向けた後、各教団による礼拝が行われ、戦没者の霊に対し、深い哀悼と鎮魂の祈りを捧げた。
結団式では、石倉理事長が「私たちはそれぞれ教団が異なり、祈りのかたちは違っていても、祈りの先にある願いは必ず一つにつながっている。世界の平和を共に祈る気持ちを沖縄の地で犠牲となられた方々にしっかり届けたい」と力を込めた。

続いて、嘉手納基地が一望できる「道の駅かでな」を視察。今も残る米軍基地の現実を目の当たりにした。また、日本軍第32軍司令部跡を訪問。この壕は、沖縄戦の核心を伝える重要な戦争遺跡として知られる。4月1日の米軍の沖縄本島上陸以降、日本軍はこの地を拠点に全島の防衛作戦を展開した。壕内では激戦の報告と命令が交錯し、沖縄全土が戦場と化す中、戦局はここから見守られていた。5月22日には首里から南部への撤退が決定され、戦闘はさらに激化した。参加者は壕跡の前で黙祷を捧げ、鉄格子の向こうに広がる痕跡を見つめ、戦争の記憶と向き合った。
次に一行は首里城を訪れた。2019年(令和元年)の火災で焼失したが、館内を巡りながら復旧工事の様子を見学した。
最終日の23日は糸満市の魂魄之塔、ひめゆりの塔を訪問。魂魄之塔はかつて、戦後住民の手で収集された3万5千の遺骨が合祀されていた。ひめゆりの塔は野戦病院で命を落とした女子学生たちを悼む場として広く知られている。
折しも強い日差しが照りつける中、代表者による献花の後、それぞれの礼拝様式で祈りを捧げ、亡き御霊へ哀悼の意を表し、「二度と戦争を繰り返してはならない」という誓いを新たにした。この後、沖縄県平和祈念資料館で展示を見学。戦争体験者の証言や史料から沖縄戦の実相を学んだ。
国立沖縄戦没者墓苑では、「戦争犠牲者慰霊並びに平和祈願式典」を執り行った。
式典では、深田充啓名誉会長が開会のあいさつに立ち、青年時代に本土復帰前後の沖縄訪問を通じ、沖縄戦の惨状と基地の現実に直面したことを振り返り、「新宗連青年会の活動は私たちの平和活動の原点」と強調。戦争の記憶が薄れゆく今、宗教者がいのちの尊さと平和の大切さを次世代に伝える責務があると訴えた。

次いで、円応教、松緑神道大和山、崇教眞光、善隣教、大慧會教団、大法輪台意光妙教会、大和教団、妙智會教団、立正佼成会の9教団の代表者が教団別礼拝を行い、慰霊と供養の誠を捧げた。
式典の最後に黙祷を捧げ、参列者一同で平和への誓いを新たにした。
解団式では、石倉理事長が終戦80年の節目にあたり、信仰者の使命として慰霊と供養に努め、「すべての方々が平穏な心で過ごせますように、いのちを全うできますように、しっかりと祈り続けさせていただきたい」と締めくくった。
2025/6/4
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